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構成資産から知る

<ruby>原城跡<rt>はらじょうあと</rt></ruby>原城跡はらじょうあと

(Ⅰ) 宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ


ゆうこさん キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原天草一揆」のしゅせんじょうあとです。 キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原しまばら天草あまくさ一揆いっき」の主戦場跡です。
  1. アニメーションバージョン(原城跡)

 原城跡はらじょうあとは、キリシタンが何をきっかけとして「潜伏」することになったのかを示す構成資産である。
 全国的に禁教政策が進む中、原城を主戦場として起きた「島原しまばら天草あまくさ一揆いっき」は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、カトリック宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航の禁止と2世紀を越える海禁体制(鎖国さこく)の確立、これに続く国内宣教師の不在という状況をもたらした。
 これによってキリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくこととなった。

 原城跡はらじょうあとは、長崎ながさき地方の南東部、島原しまばら半島の南部にあるキリシタン大名有馬ありま氏の居城の跡である。海に突き出た丘陵の地形を利用して築かれた城で、北、東、南の三方は海に囲まれ、西は低湿地に面する要害の地であった。1637年に起こった「島原しまばら天草あまくさ一揆いっき」の主戦場となり、今日まで行われてきた考古学的な調査によって、禁教初期のキリシタンが一揆いっきのときに組織的に連携していたことが明らかにされている。
 イエズス会宣教師たちの報告によると、原城は1598年から1604年にかけてキリシタン大名有馬ありま晴信はるのぶによって築かれたことが知られている。その後、有馬ありま氏に代わって領主となった松倉まつくら氏が新たに城を築いたため、1618年に原城は使われなくなった。
 江戸幕府が禁教政策を進める中、1637年に松倉まつくら氏の厳しい統治と飢きんをきっかけとして「島原しまばら天草あまくさ一揆いっき」が起こった。この一揆いっきでは、島原しまばら半島南部と天草あまくさ地方の百姓からなる約2万数千人のキリシタンが参加したといわれており、益田ますだ四郎しろうを総大将として原城跡はらじょうあとに立てこもった。幕府軍は12万人を超す兵力で一揆いっき勢を攻撃したが、激しい反撃によって8千人以上もの死傷者を出した。4ヶ月に及ぶ攻防の末、一揆いっき勢は老若男女の別なくほぼ全員が殺された。
 この一揆いっきでは、かつてこの地を治めた有馬ありま晴信はるのぶ小西こにし行長ゆきながなどのキリシタン大名の旧家臣が主導的役割を果たした。彼らは、キリシタンの共同体の単位である「くみ」の指導者であったといわれており、原城跡はらじょうあとに立てこもった際、城内に礼拝堂を建て、教えを説いていたことが幕府側の記録からうかがえる。
 これまで行われた原城跡はらじょうあとの発掘調査では、戦没したキリシタンの人骨や信心具しんじんぐが大量に出土している。信心具しんじんぐの中には、キリスト教の伝来期に宣教師から授かり代々継承されてきたメダイをはじめ、城内にて鉄砲玉を原料に急ごしらえした十字架などが含まれており、城内に立てこもったキリシタンの信仰の有り様が考古学的に明らかにされている。
 また、本丸の西側では、規則的につくられた複数の半地下式の住居跡が確認されている。これらの遺構は、立てこもったキリシタンが禁教後においても信仰を維持し、家族、集落の単位で組織的に行動していたことを明確に示している。これらのキリシタン関係の遺構や遺物は破壊された石垣の中に埋め込まれた状況で発見されたことから、再び原城を一揆いっきに利用されることを恐れた江戸幕府が徹底的に破壊したことがわかる。
 さらに一揆いっき勢が原城跡はらじょうあとへと持ち込み、陣中旗として利用した信心会ののぼりや、城内で使用していたラテン語を平仮名に音写した祈祷きとう文が現存しており、これらは一揆いっきの鎮圧後に幕府軍の武士が戦利品として持ち帰ったために今日に伝わったものとされている。
 なお、「島原しまばら天草あまくさ一揆いっき」の出来事は、その後の禁教期を通じて長崎ながさき地方の外海そとめ地域、浦上うらかみ地区など、各地の潜伏キリシタン集落において彼らの記憶として長く伝承された。

01_原城跡
01_原城跡
01_原城跡
02_原城跡本丸
02_原城跡本丸
02_原城跡本丸
03_原城跡二の丸
03_原城跡二の丸
03_原城跡二の丸
04_発掘調査で確認された人骨(発掘調査時の写真)
04_発掘調査で確認された人骨(発掘調査時の写真)
04_発掘調査で確認された人骨(発掘調査時の写真)
05_発掘調査で出土した信心具(メダイ、有馬キリシタン遺産記念館所蔵)_池田勉撮影
05_発掘調査で出土した信心具(メダイ、有馬キリシタン遺産記念館所蔵)_池田勉撮影
05_発掘調査で出土した信心具(メダイ、有馬キリシタン遺産記念館所蔵)_池田勉撮影
06_発掘調査で出土した信心具(十字架、有馬キリシタン遺産記念館所蔵)_池田勉撮影
06_発掘調査で出土した信心具(十字架、有馬キリシタン遺産記念館所蔵)_池田勉撮影
06_発掘調査で出土した信心具(十字架、有馬キリシタン遺産記念館所蔵)_池田勉撮影
07_半地下式の小屋跡(発掘調査時の写真)
07_半地下式の小屋跡(発掘調査時の写真)
07_半地下式の小屋跡(発掘調査時の写真)
08_櫓台石垣破却状況(発掘調査時の写真)
08_櫓台石垣破却状況(発掘調査時の写真)
08_櫓台石垣破却状況(発掘調査時の写真)
09_櫓台跡_池田勉撮影
09_櫓台跡_池田勉撮影
09_櫓台跡_池田勉撮影

基本情報

ガイドマップA ガイドマップB
地図
文化財の名称 所在地 文化財の指定 文化財の指定年
原城跡はらじょうあと 長崎ながさき南島原みなみしまばら南有馬みなみありま 国指定史跡 1938年

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原城跡はらじょうあと

領主の厳しい年貢の取り立てや、キリシタン弾圧が激しさを増すなか、島原しまばら天草あまくさ一揆いっきが勃発した。幕府は約12万人の兵力を動員して一揆いっき軍を攻撃。4ヵ月におよぶ攻防の末、一揆いっき軍のほぼ全員が殺された。原城跡はらじょうあとからは鉄砲玉でつくったあるものが出土している!

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> 原城跡はらじょうあと(おらしょーこころ旅サイト)
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01_石垣にみる「堅固な城」

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織田、豊臣時代に流行した初期の石垣の石積技術が原城跡にみられる。中世から近世へ、城郭建築の過渡期だった。
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02_原城跡からの出土品が語るもの

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原城跡からの出土物の中にはキリスト教関連のものが多い。死を前に一揆軍は何を思ったのだろうか。
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03_徹底して破壊された原城

徹底して破壊された原城

死者の復活を恐れ、徹底的に破壊された原城。しかし一方で、宗教を超えて死を悼む人たちの姿もあった。
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04_実りが語る土地の再興

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幕府軍によって徹底的に破壊された原城。この地で育つ「原城トマト」は、荒廃した土地からの復活のあかし。
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05_故郷の歴史を今に伝える

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島原・天草一揆後、有馬の地には集団移住などで多くの人々が住み着いた。今伝えたい思いに迫る。
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交通アクセス

原城跡はらじょうあと長崎ながさき天草あまくさ地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)

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モデルコース

長崎ながさき天草あまくさ地方の潜伏キリシタン関連遺産(ながさき旅ネット)

※別ウィンドウで開きます。

年表 宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ 潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み 潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み 宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり
地図 島原城 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳) 平戸の聖地と集落(中江ノ島) 天草の﨑津集落 外海の出津集落 外海の大野集落 黒島の集落 野崎島の集落跡 頭ヶ島の集落 久賀島の集落 奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺) 大浦天主堂 日本地図 日本地図リンク
地図 原城跡 平戸の聖地と集落 中江ノ島 天草の﨑津集落 外海の出津集落 外海の大野集落 黒島の集落 野崎島の集落跡 頭ヶ島の集落 久賀島の集落 奈留島の江上集落 大浦天主堂 宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ 潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み 潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み 宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり 日本地図リンク
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