構成資産から知る
大浦天主堂
(Ⅳ) 宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり
宣教師との接触という、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所です。 | 宣教師との接触という、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所です。 |
-
アニメーションバージョン(大浦天主堂)
「大浦天主堂」は、「潜伏」が何をきっかけとして終わったのかを示す構成資産である。
日本の開国により来日した宣教師と潜伏キリシタンは、2世紀ぶりに大浦天主堂で出会った(「信徒発見」)。
その後に続く大浦天主堂の宣教師と各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触によって転機が訪れ、カトリックへ復帰する者や、引き続き禁教期の信仰を実践する者、神道や仏教に改宗する者に分かれ、「潜伏」は終わりを迎えることになった。
「大浦天主堂」は、長崎地方の南部、長崎港に面した高台にあり、歴代神父が居住した司教館、当初居留地の外国人のために建てられた大浦天主堂、解禁後の宣教のために建てられた神学校、および伝道師学校の一群の建築物からなる。
この地はかつての大浦の外国人居留地内であり、開国にともなって1862年にパリ外国宣教会のフューレ神父が長崎における宣教拠点と定めた場所である。
境内地には、まず1863年に神父が居住する司教館が建てられ、続いて1864年に大浦天主堂が建設された。3つの塔のあるゴシック風の外観で、正面上部には仏教寺院の扁額にみられるような「天主堂」の文字が記され、内部は3廊式の構造であった。天主堂は、16世紀に長崎で殉教し1862年に列聖された日本二十六聖人にささげられ、彼らの殉教地である西坂の方角に向けて建てられた。
1865年の落成式の直後に長崎の浦上村の潜伏キリシタン10数人が大浦天主堂を訪れ、その中のひとりがプティジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」(ここにいる私たちはみな、あなた様と同じ心です)と自分たちの信仰を告白した。いわゆる「信徒発見」と呼ばれるこの歴史的な出来事はただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、彼らの指導者は相次いで大浦天主堂を訪れ、宣教師との接触を開始した。
宣教師との接触は、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらした。宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになった。そのため、1867年に江戸幕府は浦上の潜伏キリシタンを捕え、禁教政策を引き継いだ明治政府も3,000人以上もの潜伏キリシタンを国内の20藩に配流するとともに信仰を捨てるよう拷問した。これが「浦上四番崩れ」である。五島においても信仰を表明した潜伏キリシタンを捕らえた「五島崩れ」、久賀島では約200人の潜伏キリシタンをわずか6坪の牢屋に投獄し、多くの死者を出した「牢屋の窄事件」が起きた。これらの弾圧に対して大浦天主堂の宣教師は在日領事に働きかけて事態の収拾に努めた。1873年、諸外国による抗議を背景として明治政府がついに禁教の高札を撤廃したため、日本におけるキリスト教徒への弾圧政策は終わった。
キリスト教の解禁によって各地の潜伏キリシタンは宣教師の指導下に入って16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへ復帰する者、「かくれキリシタン」のように宣教師の指導下に入らずに引き続き禁教期の信仰形態を続ける者、神道や仏教へと改宗する者へとそれぞれ分かれた。
大浦天主堂の宣教師は、潜伏キリシタンが16世紀以来の信仰とともに継承してきたラテン語やポルトガル語由来の「キリシタン用語」をはじめ、潜伏キリシタンが伝写してきた教理書などを重視し、カトリックに復帰した信徒への手厚い指導を行った。また、新たにキリスト教宣教のための彩色版画なども製作した。その一方で、潜伏キリシタンが独自に信仰を続けてきた方法に対してはカトリックとしての修正を図っていった。
大浦天主堂では、解禁後に増加する信徒に対応するために増築が行われ、1879年に現在のかたちとなった。境内には日本人の司祭や伝道師の育成の場としてそれぞれ羅典神学校、伝道師学校が建てられた。羅典神学校は1875年に創設され、1879年に初の卒業生を送り出した。卒業生は日本人司祭として各地へと派遣された。伝道師学校は、宣教師が各地の潜伏キリシタン集落を広く巡回することが困難であったため、宣教師に代わって教理を伝える伝道師を養成するために1883年頃に創設されたものである。1892年までの間に多くの日本人伝道師を輩出し、教理指導のために各地へ派遣された。羅典神学校や伝道師学校は、転機を迎えた潜伏キリシタンのカトリックへの復帰を促す原動力となった。
基本情報
文化財の名称 | 所在地 | 文化財の指定 | 文化財の指定年 |
---|---|---|---|
大浦天主堂 | 長崎県長崎市南山手町 | 国宝 | 1933年 |
大浦天主堂境内 | 長崎県長崎市南山手町 | 国指定史跡 | 2012年 |
旧羅典神学校 | 長崎県長崎市南山手町 | 国指定重要文化財 | 1972年 |
南山手伝統的建造物保存地区 | 長崎県長崎市南山手町 | 国選定重要伝統的建造物群保存地区 | 1991年 |
もっと魅力を知りたい場合はこちら
江戸時代の厳しい弾圧のなか、1644年以降は神父も不在となり、キリシタンは途絶えてしまったと思われていたが、再び日本が開国すると、宣教師は居留地に住む外国人のために教会堂の建設を始めた。それは日本の潜伏キリシタンを見つけ出すメッセージでもあった。
おらしょーこころ旅サイトでコラムを読む
> 大浦天主堂(おらしょーこころ旅サイト)
※別ウィンドウで開きます。
フランス人宣教師ド・ロ神父の設計により、1875年に建設された司祭養成のための学校。地下1階、地上3階建てで、地階は食堂ほか、1階は自習室や校長室、2階は教室と礼拝所、3階は寝室として使われていたという。1879年、ド・ロ神父は外海地域へと赴任した。
おらしょーこころ旅サイトでコラムを読む
> 旧羅典神学校(おらしょーこころ旅サイト)
※別ウィンドウで開きます。
フューレ神父らが司祭館としてつくった建物の老朽化により、1915年、ド・ロ神父らが改めて建設した。建物は大浦天主堂の前面に位置し、地下1階をもつ地上3階建て。1階は執務室、応接室、食堂など、2階は宣教師の私的な居室、3階は広い一室空間となっている。
おらしょーこころ旅サイトでコラムを読む
> 旧長崎大司教館(おらしょーこころ旅サイト)
※別ウィンドウで開きます。
訪れたい場合はこちら
>大浦天主堂(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)
※別ウィンドウで開きます。(「アクセス参考図」をご覧ください)
>長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(ながさき旅ネット)
※別ウィンドウで開きます。