構成資産から知る
久賀島の集落
(Ⅲ) 潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み
五島藩の政策に従ってしまの未開発地に開拓移住することによって共同体を維持した集落です。 | 五島藩の政策に従って島の未開発地に開拓移住することによって共同体を維持した集落です。 |
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アニメーションバージョン(久賀島の集落)
「久賀島の集落」は、潜伏キリシタンが信仰の共同体を維持するに当たり、どのような場所を移住先として選んだのかを示す4つの集落のうちの一つである。
18世紀後半以降、外海地域から各地へ広がった潜伏キリシタンの一部は、五島藩が積極的に久賀島に開拓移民を受け入れていることを知り、既存の集落と共存できそうな場所として選んで移住し、漁業や農業で彼らと互助関係を築きながら、ひそかに共同体を維持した。
解禁後はカトリックに復帰し、島内の各集落に教会堂を建てたことにより、彼らの「潜伏」は終わりを迎えた。
久賀島は五島列島の南部に位置し、北側から中央部に向かって湾入する久賀湾を中心とし、その周囲に山がちの地形が馬蹄形に取り囲む周囲約52kmの島である。潜伏キリシタンが開拓移民政策に従って開拓した水田、仏教徒と協働で行う漁網の巻き揚げ作業の場となったロクロ場跡、潜伏キリシタンの墓地、「信徒発見」後の弾圧の場、解禁後に建てられた教会堂やその跡がある。
五島列島における本格的なキリスト教の宣教は、1566年にイエズス会宣教師アルメイダにより久賀島の南側に隣接する福江島で始まった。久賀島での宣教を直接的に示す記録はないが、北側に隣接する奈留島には17世紀初頭にすでにキリシタンがいたことを示す記録があることから、16世紀後半から17世紀初頭にかけて福江島と奈留島に挟まれた久賀島にもキリスト教が伝わった可能性が高い。
しかし、18世紀頃には徹底した禁教政策により五島列島におけるキリシタンはいったん姿を消したものと考えられている。この頃の久賀島の状況を記した文書によると、当時の久賀島の人口は456人であり、久賀、大開、猪之木、市小木、蕨などの地が記されており、これらはすべて農業に適した平地に立地する集落であった。一方、海浜には島の玄関口であった田ノ浦のほか、塩作りを行う窯百姓がいた深浦などの漁村集落があった。これらの集落の住民はすべて仏教徒であり、田ノ浦集落に置かれた五島藩の代官所(後に、久賀集落に移設)の管轄下にあった。
大村藩から五島藩への農民の移住協定が成立した1797年以降、五島列島の各地に「居付」と呼ばれる開拓農民の集落が形成されたが、その多くは潜伏キリシタンの集落であった。久賀島では代官所の容認のもとに、既存の仏教集落の縁辺部である永里、内上平、外上平や、仏教集落から隔絶した場所である五輪、細石流に潜伏キリシタンの移住集落が形成された。永里、細石流、大開、浜泊、五輪の各集落には禁教期から続く潜伏キリシタンの墓地が今も残っている。
潜伏キリシタンの移住先はすべて農業に適さない土地であり、自力で開墾するには移住者の数が不足していた。そのため、潜伏キリシタンは仏教徒の水田の隣に新たな水田を開いたり、仏教徒が行う農漁業などにともなう各種の作業を協働で行ったりするなど、仏教徒である島民との間に何らかの互助関係を築きながら生活・生業を営んだ。
このように久賀島に移住した潜伏キリシタンは、移住先の仏教集落の住民と互助関係を築く一方で、集落ごとに指導者を中心とする共同体を維持し、ひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を続けた。永里集落では潜伏キリシタンの指導者が代々継承した中国製の白磁の観音像を聖母マリア像に見立てた「マリア観音」にひそかに祈りをささげた。
1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始した。久賀島の潜伏キリシタンの指導者もひそかに接触し、信仰を告白するとともに教理の指導を受けた。そして宣教師との接触をきっかけに久賀島の潜伏キリシタンは公然と自らの信仰を表明するようになったため、1868年に五島列島一円で「五島崩れ」と呼ばれる大規模な摘発事件が起こり、狭い牢屋に多数の信徒が監禁され、多くの死者を出した「牢屋の窄事件」が起きた。久賀島は1873年の解禁の直前に潜伏キリシタンへ弾圧が加えられた最後の現場となった。牢屋の窄事件が起きた場所には殉教者を弔うための教会堂と記念碑が建てられ、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した久賀島の信徒にとって今なお禁教期の記憶の場所となっている。
解禁後、久賀島の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、浜脇、永里、細石流、赤仁田の各集落には教会堂が建てられた。それは、久賀島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。なお、久賀島で初めて建てられた初代浜脇教会堂は、久賀島の東岸にある五輪集落に移築され、旧五輪教会堂として現存している。
基本情報
文化財の名称 | 所在地 | 文化財の指定 | 文化財の指定年 |
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五島列島における瀬戸を介した久賀島及び奈留島の集落 | 長崎県五島市 | 国選定重要文化的景観 | 2011年 |
旧五輪教会堂 | 長崎県五島市蕨町 | 国指定重要文化財 | 1999年 |
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外観は民家風の素朴さに特徴があり、昔の学び舎のような懐かしい温かさがある。1984年、台風の被害にあい、その傷みの激しさから取り壊される危機を迎えていたが、地元住民たちの声によって保存されることが決定したという。
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>久賀島の集落(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)
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