歴史から知る
(Ⅳ)宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり
潜伏キリシタンの信仰継続にかかわる伝統
長崎と天草地方の潜伏キリシタンは、日本の開国にともなって来日した宣教師によって建てられた長崎の「大浦天主堂」で約2世紀ぶりに宣教師と再会した。1865年に長崎の浦上村の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪れ、宣教師に自分たちの信仰を告白した。この衝撃的な出来事は「信徒発見」と呼ばれ、これにより潜伏キリシタンは転機を迎えることとなった。
各地の潜伏キリシタンの指導者はひそかに大浦天主堂を訪れて宣教師と接触し、宣教師不在の中で自分たちが授けてきた洗礼の有効性や教理の正当性について確認を行った。各集落では宣教師の指導下に入るのか、約2世紀半にわたり継続し続けてきた信仰のあり方をそのまま続けるのかについて選択を迫られる事態となり、出津集落の「野中騒動」のように同一の集落内で潜伏キリシタン同士が対立する事件も起こった。
宣教師の指導下に入ることを決めた潜伏キリシタンは、江戸幕府の方針を継承した明治政府が禁教政策を続けていたにもかかわらず、自分たちの信仰を公然と表明するようになったため、取り締まりを担当する政府も黙認の姿勢を取り続けることが困難となった。その結果、再び潜伏キリシタンへの弾圧が強化され、「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」といった摘発事件が相次いで起こった。しかし、明治政府による潜伏キリシタンへの弾圧に対して西洋諸国が強く抗議したこともあり、1873年、ついに日本においてキリスト教が解禁されることとなった。
これにより潜伏キリシタンは、宣教師の指導のもとに16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰しようとする者、宣教師の指導下に入ることを拒み、引き続き集落内の信仰指導者を中心に従来どおり自分たちの潜伏キリシタン由来の信仰を続けようとする者(かくれキリシタン)や、様々な葛藤の末に、それまでの信仰から離れて神道や仏教に転宗しようとする者などに分かれた。
宣教師の指導下に入ってカトリックに復帰した潜伏キリシタンは、かつての指導者の屋敷などを「仮の聖堂」として祈りの場とした。多くの集落で、禁教期に複数存在した共同体が統合され、改めて設けた「仮の聖堂」で祈りをささげるようになった。他方で集落の中に複数存在した「仮の聖堂」のあり方などから禁教期の共同体の単位を引継ぎながらカトリックの教えに従った集落が存在したことも明らかとなっている。
1865年の外国人宣教師との出会いは、潜伏キリシタンにとってカトリックへの復帰のみならず、それまでの信仰形態の継続、神道や仏教への転宗など、複数の選択肢の中から異なる方向性を見つけ出すという転機をもたらした。
1873年のキリスト教解禁後、カトリックに復帰して「仮の聖堂」などを祈りの場としていたかつての潜伏キリシタンは、1880年代半ば頃からそれぞれの集落に素朴な木造の教会堂を建て始めた。これらの教会堂は、カトリックへの復帰をあらわす存在であると同時に、2世紀を越える禁教下における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴的に示すあかしでもある。多くの教会堂は、宣教師の指導のもとに集落の中心地や、殉教などによって記念地となった場所に建てられたり、信徒の増加に伴って、レンガ造またはコンクリート造など西洋由来の建築資材、工法を用いて建て替えられたりした。それらの教会堂の中には、禁教期に起源を持つ在来の材料、工法を用いることにより、湿気を防ぐだけではなく西からの強い季節風をも防ぐなど、地域の風土に適応して建てられた教会堂もあった。
この段階の構成資産
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