来訪時のルール・アクセス
色合い白 黒 青
文字サイズ標準

構成資産から知る

<ruby>平戸<rt>ひらど</rt></ruby>の聖地と集落(<ruby>中江ノ島<rt>なかえのしま</rt></ruby>)平戸ひらどの聖地と集落(中江ノ島なかえのしま

(Ⅱ) 信仰の継続にかかわる伝統形成の段階


ゆうこさん 山岳や島を聖地や殉教じゅんきょう地として崇敬しながら、ひそかに信仰を続けた集落です。

平戸ひらどの聖地と集落」は、キリスト教が伝わる以前から続く自然崇拝思想に重ねて自然の山などを崇敬し、キリシタンの殉教じゅんきょう地を聖地とすることにより自らのかたちで信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落である。禁教期の春日かすが集落の潜伏キリシタンは、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳やすまんだけに対して自らの信仰を重ねて崇拝した。さらに彼らは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島なかえのしま殉教じゅんきょう地として崇敬し、洗礼などに使う聖水採取の場とした。解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、現在ではほぼ消滅している。

 「平戸ひらどの聖地と集落」は、平戸ひらど島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが崇敬した山岳と島からなる。春日かすが集落は、平戸ひらど島の西岸に位置し、東側の安満岳やすまんだけから伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日かすが集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンが信心具しんじんぐを隠した「納戸なんど」のある住居、潜伏キリシタンの墓地がある。春日かすが集落に隣接し、潜伏キリシタンが在来の自然崇拝に重ねて崇敬した安満岳やすまんだけには、白山比賣神社はくさんひめじんじゃとその参道、石祠いしぼこら西禅寺さいぜんじ跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日かすが集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教じゅんきょう地として崇敬の対象となった中江ノ島なかえのしまがある。
 平戸ひらど島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸ひらど島の西岸地域の領主である籠手田こてだ氏が改宗したことにより春日かすが集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「くみ」が春日かすが集落において成立していたことが確認できる。
 しかし、1599年、平戸ひらど地方の領主であった平戸ひらど松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田こてだ氏は平戸ひらど島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸ひらどを訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教じゅんきょうして以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日かすが集落では「くみ」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。
 禁教期の春日かすが集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として自分たち自身で日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続ける伝統がはぐくまれた。指導者の住居には仏壇や神棚のほか、潜伏キリシタンの信心具しんじんぐ納戸なんど神)を隠した「納戸なんど」と呼ばれる部屋があり、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳やすまんだけに対して潜伏キリシタンの信仰を重ね、聖地として崇拝した。
 安満岳やすまんだけ春日かすが集落の東側に位置し、標高536mの平戸ひらど地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社はくさんひめじんじゃとその参道、山頂部には石祠いしぼこら西禅寺さいぜんじ跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣神社はくさんひめじんじゃは718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、「キリシタン祠」と呼ぶ石祠いしぼこらもある。参道に隣接する西禅寺さいぜんじ跡は、白山比賣神社はくさんひめじんじゃとあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺さいぜんじを中心とする仏教勢力が「安満岳やすまんだけ」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、安満岳やすまんだけは神道、仏教、潜伏キリシタンの信仰が並存する聖なる山となった。春日かすが集落からも安満岳やすまんだけ山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民にとって崇拜の対象となっていた。禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳やすまんだけは「安満岳やすまんだけ様」または「安満岳やすまんだけの奥の院様」と呼ばれており、安満岳やすまんだけが潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。
 平戸ひらど島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島なかえのしまは、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸ひらど藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島なかえのしまは、春日かすが集落など平戸ひらど西海岸の潜伏キリシタンが殉教じゅんきょう地として崇敬した場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取りおみずとり」の儀式を行う重要な聖地となった。
 潜伏キリシタンによる安満岳やすまんだけ中江ノ島なかえのしまの聖地への崇拝、崇敬は、外見的には伝統的な在来信仰、民俗の儀礼として行われ、内面での信仰は隠し続けられた。
 1865年の大浦天主堂おおうらてんしゅどうでの「信徒発見しんとはっけん」の知らせはただちに平戸ひらど地方にもたらされ、春日かすが集落の潜伏キリシタンが新たな信仰の局面を迎えるきっかけとなった。春日かすが集落の納戸なんど神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具しんじんぐが加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日かすが集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在ではほぼ消滅している。

01_平戸の聖地と集落_日暮雄一撮影
01_平戸の聖地と集落_日暮雄一撮影
01_平戸の聖地と集落_日暮雄一撮影
02_丸尾山
02_丸尾山
02_丸尾山
03_春日集落_池田勉撮影
03_春日集落_池田勉撮影
03_春日集落_池田勉撮影
04_春日集落の潜伏キリシタン墓地
04_春日集落の潜伏キリシタン墓地
04_春日集落の潜伏キリシタン墓地
05_安満岳山頂にある石の参道と鳥居_日暮雄一撮影
05_安満岳山頂にある石の参道と鳥居_日暮雄一撮影
05_安満岳山頂にある石の参道と鳥居_日暮雄一撮影
06_信心具(オテンペンシャ、個人所蔵)
06_信心具(オテンペンシャ、個人所蔵)
06_信心具(オテンペンシャ、個人所蔵)
07_安満岳山頂の石造物群_日暮雄一撮影
07_安満岳山頂の石造物群_日暮雄一撮影
07_安満岳山頂の石造物群_日暮雄一撮影
08_西禅寺跡_池田勉撮影
08_西禅寺跡_池田勉撮影
08_西禅寺跡_池田勉撮影
09_中江ノ島_日暮雄一撮影
09_中江ノ島_日暮雄一撮影
09_中江ノ島_日暮雄一撮影
10_中江ノ島での「お水取り」(島の館蔵)
10_中江ノ島での「お水取り」(島の館蔵)
10_中江ノ島での「お水取り」(島の館蔵)

基本情報

地図
文化財の名称所在地文化財の指定文化財の指定年
平戸ひらど島の文化的景観長崎ながさき平戸ひらど国選定重要文化的景観2010年

もっと魅力を知りたい場合はこちら

中江ノ島なかえのしま

かくれキリシタンはこの島に病気の治癒を祈願し、亡くなった死者の顔を島に向けて埋葬したという。1622年、神父を助けた生月や平戸ひらどの信徒たちが処刑された中江ノ島なかえのしま。ここでおこなわれている「お水取りおみずとり」とはどんな儀式なのだろう?

おらしょーこころ旅サイトでコラムを読む
> 中江ノ島なかえのしま(おらしょーこころ旅サイト)
※別ウィンドウで開きます。

01_島の名は「サンジョワン様」

島の名は「サンジョワン様」

キリシタンの殉教地であり、聖地でもある無人島。信徒たちは聖水をくむために、荒波を越えて島へと渡る。
コラム全文を読む(おらしょーこころ旅サイト)

01_島の名は「サンジョワン様」

訪れたい場合はこちら

交通アクセス

平戸ひらどの聖地と集落長崎ながさき天草あまくさ地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター)

※別ウィンドウで開きます。(「アクセス参考図」をご覧ください)

モデルコース

【世界遺産候補】長崎ながさき天草あまくさ地方の潜伏キリシタン関連遺産(ながさき旅ネット)

※別ウィンドウで開きます。